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水戸地方裁判所常陸太田支部 昭和35年(タ)9号 判決 1963年10月31日

原告 渡辺宏夫

被告 竹田幸二 〔人名いずれも仮名〕

主文

原告が被告の子であることを認知する。

訴訟費用は被告の負担とする。

事実

第一、当事者双方の申立

原告 主文と同趣旨。

被告 原告の請求を棄却する。

訴訟費用は原告の負担とする。

第二、請求原因

原告の母亡渡辺あきは、昭和一〇年頃から被告方で仲働きとして働き、被告方に同居していたところ、昭和一〇年中に被告と情交関係を結び、その結果昭和一一年九月一四日被告との間の子である原告を生んだが、当時被告との婚姻の届出をすることができない事情があつたので、あきの私生子として届出た。当時被告も原告が被告の子であることは認めていて、原告が生れたとき、あきに産衣を贈つた。また昭和一三年一月中あきの父渡辺杉作が原告の出生の問題について被告と交渉したところ、被告は原告が被告とあきとの間の子であることを認めて、その所有の茨城県久慈郡佐原村大字左貫字入山口四、四三一番、山林一筆九畝七歩をあきに贈与し、杉作への売買名義でこの山林の所有権移転登記手続をした。ところがその後あきは死亡し、被告は原告が自分の子であることを否認するようになつたので、被告に対し原告が被告の子であることを認知することを求める。

第三、被告の答弁

請求原因事実中、原告の亡母あきが昭和一〇年頃から被告方に同居して仲働きとして働いていたこと、あきが原告主張の頃原告を生み、あきの子として届出たこと、昭和一三年一月中に原告の祖父杉作からの交渉があり、その頃原告主張の山林が杉作への売買名義で贈与されたこと(ただし、この交渉は被告の亡父清十郎に対してされたもので、また山林は杉作に対して贈与されたものである)原告の生れたとき、被告があきに産衣を贈つたことはいずれも認めるが、そのほかの事実はすべて否認する。被告があきと情交関係を結んだ事実は全くなく、産衣を贈つたのは、当時原告の家と被告の家とが田舎でいうえぼし親とえぼし子の関係にあり、被告の家で原告の一家のことについていろいろ面倒を見ていた関係上したことにすぎない。

あきは、被告方に同居中もとかく身持が悪く、原告を生む前に、訴外久保正及び被告の亡父竹田清十郎と情交関係を結んだ事実があり、原告はこの両名のいずれかとあきとの間に生れた子であつて、被告の子ではない。

第四、右の被告の主張に対する原告の答弁

あきが久保正又は竹田清十郎と情交関係を結び、その結果、原告を生んだとの事実は否認する。

第五、証拠<省略>

理由

第一、原告の出生当時の状況及びその後の経過

公文書として真正に成立したものと認める甲第一、二号証、乙第一号証、証人渡辺杉作、同渡辺勇一、同渡辺五郎(第一回)、同渡辺仙太郎、同久保正(第一回)、同渡辺貞夫及び原被告本人の各供述を綜合すると、つぎの事実が認められる。

原告の母渡辺あきは、大正九年二月九日渡辺杉作の長女として生れ、昭和一〇年初め頃から約一ケ年間大子町の被告の肩書住所地にある被告の父竹田清十郎方に住みこみの女中として働きに行つていたが、同年秋頃妊娠し翌一一年の初めから、当時大子町で荷馬車による運送業を営んでいた父渡辺杉作の許に帰り、同年九月一四日に同所で原告を生んだ。被告は大正三年六月五日に清十郎の長男として生れ昭和九年から約一年間肋膜のため入院していたが昭和一〇年九月頃からは、前記清十郎方にかえり、いらい同所に住んでいた。被告はこの当時満二二才で独身であり清十郎の営んでいた製材業を手伝つていたが、その頃清十郎の家には清十郎及び被告のほかに被告の妹二人、事務員の久保正、右渡辺あきを含めて二、三人の女中などが住んでいた、なお、あきはその後昭和一六年頃に原告の養育を杉作に託して東京へ出て暮していたが、昭和三一年一月に死亡した。被告は昭和一二年頃多田せいと結婚し、いらい肩書地で農業を営んでいる。

以上のように認められ、この認定を左右するような証拠はない(なお、清太郎が当時被告と同居していたことについては、これに反する証拠が若干あるが、この点は後に判断する)。

第二、原被告間の親子関係の有無

本件の主たる争点である被告とあきの間の情交関係については、一方の当事者であるあきは既に死亡し被告は極力これを否定している。そして右に認定したように昭和一〇年の九月頃から同年末にかけて、原告の母あきと被告とがいずれも被告の父清十郎方に住んでいたことは事実であるが、両名がその間同棲するなどして公然と情交関係をつゞけていた形跡はなく、従つてあきと被告が原告のいうように情交関係をもつたとしても、いわばかりそめの情事にすぎないわけであるから、二〇年余を経た今日、原被告間の父子関係の有無を判定することは必ずしも容易でない。しかし、裁判所は本件の全記録を検討し特に以下の(一)ないし(四)の諸証拠ないし事実を綜合して、原告はあきが昭和一〇年中に被告と情交関係を結んだ結果、被告との間で生んだ子であると判断する。

即ち(一)鑑定人古畑種基は血液型検査及びいわゆる人類学的検査を含む詳密な調査の結果、原告は被告の子であるとの結論に達しており、この鑑定の結果は後にも述べるように信頼するに足りるものと考える。また鑑定人中館久平の鑑定の結果によつても、原被告間の親子関係の存在する可能性が認められている。もつともこの中館鑑定は被告以外のものと原告との間の親子関係の存在の可能性をも肯定しているが、このことによる被告側の不貞の抗弁の成否、また中館鑑定と対比した場合の古畑鑑定の信頼性などの点については、後に述べる。

(二) 証人渡辺政夫、同渡辺勇一、同渡辺杉作、同森永万之助及び被告本人の各供述を綜合すると、つぎの事実が認められる。

あきの父杉作は、あきが原告を懐妊して間もなく、被告があきに妊娠させたと主張して、渡辺勇一、渡辺政夫、森永万之助らを介し被告の父清十郎と交渉し、この問題について善処するよう求めたところ、清十郎は原告の出産の費用として当時の金で約三〇円を杉作にわたしたほか被告名義の大子町大字左貫字入山口の約一反程度の山林を贈与し(これにもとずきこの山林の登記名義は後に杉作に移された)更に杉作が当時清十郎に対して負担していた約三〇〇円の債務をも免除してやり、なお原告の生れたときには原告のために産衣を贈つた。

かような事実を認めることができる。そして右の各供述から見ても当時清十郎は同人や杉作の住む部落での有力者で、かつ資産家でもあつたのに対し、杉作は一介の荷馬車ひきで、清十郎からは平素恩顧を蒙むつていた間柄であつたことがうかゞわれるので、よほどの理由がない限り、清十郎が杉作に対しこのようなまとまつた額の財産を贈与する筈はないと思われるから、他にこの贈与の理由となり得るような事情が何ら立証されていない以上、杉作や渡辺勇一証人の述べているとおり、清十郎は被告があきと関係して原告を生ませ、しかもその子供を杉作に引き取らせたことの代償として、かような贈与をしたものとみるほかはない。もつとも証人渡辺政夫(第一、二回)及び森永万之助は、清十郎は自分の家の女中をしていた杉作の娘が不始末をしたからというだけの理由で右の贈与をしたにすぎない旨述べているが、前記のような清十郎と杉作との関係から考えてもそれだけのことで清十郎がこのような多額の財産を贈与するとは到底考えられない。また産衣についても、被告は当時清十郎の家と杉作の家との間がいわゆるえぼし親とえぼし子の関係にあつたから産衣を贈つたにすぎないと主張しているが、これを裏づけるような証拠もないので、この産衣の贈与の事実もまた原被告間の父子関係の存在を推測させる一つの証拠とみなすことができる(なお被告は山林等の贈与は被告でなく清十郎自身があきと関係したことに対する代償としてなされたもののように述べているが、後に述べるように、清十郎とあきとの情交関係については適確な証拠がない上に、この点に関する被告の主張立証には種々不自然な点があるので、この供述も採用できない)。

(三) 証人渡辺五郎(第一、二回)は、あきが昭和一〇年中被告方で女中として働いていた頃に、被告とあきが被告方に近い採草地で抱き合つているのを見たことがあり、また被告に頼まれて被告の手紙をあきに渡したこともある旨証言している。この証言は二〇余年も前の同証人の約一三才の頃の記憶によるものである点で、多少問題はあるが、その内容は具体的で証言の内容も後述の久保正や渡辺政夫、渡辺貞夫らの証言などと比べると、不自然な点がなく、かつ一貫して同趣旨の証言をしているので(証人楠木忠冬の証言にも拘らず、渡辺五郎証人が第二回の証言で前の証言を変更したものとは認められない)、他の(一)ないし(四)の証拠ないし事実とも綜合してこれを被告とあきとの間の情交関係をうらずける証拠とすることができる。

(四) 証人渡辺平助、同竹田三郎、同渡辺仙太郎及び原被告各本人の供述によると、昭和三三年中に原告の認知の問題について渡辺平助、竹田三郎らの仲介で原被告の間で数回の話合いが行われ、原告が一五〇万円余の金を支払うよう要求したのに対し、結局被告が応じなかつたため話合いが成立するに至らなかつたことが認められる。そして証人渡辺平助及び原告は、被告がこの話合いの際、原告との親子関係があることを認めたというのに対し、竹田証人及び被告はこれを否定し双方の供述が対立しているが、少なくとも被告がそのような要求をする原告との話合いに応じて自ら原告と話し合い、しかも額の多寡は別として、ともかく多少の金は出す考えをもつていたことは、被告自身の供述によつて明らかである。このような被告側の態度は、少なくとも原告側の要求が全く根も葉もない、いゝがかりでないことを示すものといわれても仕方のないものであつて、既に認定したように原告の出生の頃も、清十郎と杉作の間で前記のような交渉ないし財産の贈与が行なわれたことをも考えあわせると、この昭和三三年の話合いの事実もまた原被告間の父子関係の存在を推測させる一つの資料とすることができる。もつとも被告は、この昭和三三年の話合いのときは、父清十郎とあきとの情交関係を明るみに出さないために多少の涙金位は出してよい気持になつたにすぎないと述べているが、前にも述べたように、清十郎とあきとの関係について十分な証明がない上に、この点に関する被告の主張立証には種々不自然な点があるので、この被告の弁解もまた採用し難い。

即ち、以上(一)ないし(四)の事実ないし証拠を綜合すると、あきは、被告方に同居中、被告と情交関係を結んだ結果原告を懐妊したもので、原被告間には父子関係が存在するものと認めるに足りる証拠があるといつてよい。

第三、被告の不貞の抗弁について

以上のように、原被告間の父子関係を証明するに足りる証拠があるが、これに対し被告は、あきは清十郎の家で働いていた当時から身持ちが悪く、被告の父清十郎及び当時清十郎のもとで事務員として働いていた久保正とも情交関係を結んでいたもので、原告は、この両名のいずれかの子であつて被告の子ではないと主張し、いわゆる不貞の抗弁を提出している。しかしつぎに述べる理由により、この不貞の抗弁は結局その証明がないものと考える。

(一)  清十郎とあきとの関係について

証人久保正(第一、二回)、同奥田かなえ及び被告本人の各供述によると、清十郎は、昭和一〇年当時被告やあきも住んでいた大子町の自宅に寝泊りして、自分の経営する近くの製材工場へ通つていたこと(この清十郎の同居の事実を否定する証人渡辺勇一、同渡辺五郎(第一回)の各証言は、いずれも十分な根拠を欠くもので採用できない)、清十郎は当時四四、五才で妻が昭和一〇年三月頃に死亡した後は独りで暮しており、花柳界に出入りするなどして、女道楽もかなりしていたことがそれぞれ認められるので、同居中の女中のあきと間違いをおこす可能性もないとはいえない人物であつたということはいえる。しかしこの程度のことでは、あきとの関係の問題もやはり想像の域を出で得ないのであつて、この点に関する久保正(第一、二回)、奥田かなえ及び被告本人の供述もいずれも単なる推測以上のものでなく、そのほかに清十郎とあきとの情交の事実を裏づけるような証拠はない。のみならず当時清十郎の秘書役としてもつとも密接な関係にあつた久保正すら、その供述(第二回)のなかで清十郎の品行や道楽、女中部屋への出入などのことには触れながら清十郎とあきが関係したことについてはきいたことがない旨述べているのであつて、前記のように、当時原告の出生をめぐつて財産の贈与の話までされたことがあるのに、久保が清十郎とあきとの関係について全くきいていないということは、情十郎があきとの問題の直接の当事者でなかつたことをうかゞわせるものといわなければならない。

また原告の出生前後に行なわれた前記の山林等の贈与も、被告ではなく清十郎自身の不始末を償う意味でしたものと考える余地がないことはないが、もしそうだとすれば、これは原告の主張に対する有力な反証となり得るのに拘らず訴訟の初期の段階で、証人渡辺政夫、渡辺勇一、渡辺杉作、森永万之助らに対し、右の山林等の贈与に関して尋問が行なわれた際、被告側で清十郎とあきの問題について尋問した形跡が全くないのであつて、これは甚だ不可解なことといわなければならない。この点に限らず、清十郎とあきとの問題に関する被告の訴訟上の態度には理解に苦しむ点が少なくない。もともと成立に争いのない甲第二号証の記載によつて明らかなように、清十郎は既に昭和二二年三月に死亡し、被告は当時なお施行中の旧民法により、清十郎から家督相続をしたものであるから、清十郎と原告との間の父子関係が訴訟上明らかになつたとしても、いまさら特に財産上の不利益等を蒙むるものとは思われず、従つて真に被告でなく清十郎があきとの情交の相手方であつたのなら、原告の主張に対する、もつとも重要な反証として、本訴の当初からこれを持出して然るべきであるのに、記録によつて本件口頭弁論の経過を検討して見ると、被告は当初は清十郎とあきの関係には少しも触れずにおいて、訴提起後一年半近くを経過し、六回もの口頭弁論を経てかなりの証拠調を終り、被告にとつて不利な古畑鑑定の結果が提出された後の昭和三七年三月になつて始めて清十郎とあきの情交関係に関する証拠の申出をしていることが明らかである(昭和三七年三月九日付被告の証拠の申出参照。もつともこれにさきだつ昭和三六年九月五日の久保正証人の尋問においても、被告側は清十郎の素行について若干たずねてはいるが、昭和三六年八月一一日付被告提出の尋問事項に明らかなように、この久保の尋問はほんらい清十郎とあきの関係について尋ねようとしたものではなく、また、それ以前の同年五月九日の同証人の尋問では前述のように、久保は当時清十郎の身近に暮していたものであるのに、すこしも清十郎とあきとの関係について尋問されていない)。このような被告の態度は、理解し難いものであつて、この点に関する被告の主張の真実性をも疑わせる。結局これら一切の点を綜合して考えると、清十郎とあきとの情交の事実、従つて、また原告と清十郎との間の父子関係の存在については、その証明がないものというほかはない。なお、この点に関する中館鑑定の結果も、清十郎と原告との間の父子関係の存在を証明するに足りる証拠にはならないと考えるが、この点については後に一括して述べる。

(二)  久保正とあきとの関係について

この点については、久保正自ら(第一回)が、あきと同居中同人と情交関係を結んだ旨証言し、証人渡辺貞夫及び渡辺政夫も直接もしくは間接にこれを裏づけるような証言をしている。しかし久保証人は第一回尋問における最初の尋問では、あきとの情交関係を明らかに否定しながら、後の期日の継続尋問においては、にわかにこれをひるがえして渡辺貞夫証人の証言に相応じるかのように、あきとの情交の事実を認めているのであり(しかも原告との父子関係は終始否定している)その供述の不自然な推移から見ても、たやすくその証言を信用することができない。またこの点に関する渡辺貞夫及び渡辺政夫の証言は一見いかにも具体的であるが随分古いことなのに両名でことこまかに相応じる内容の証言をしており、情交を発見したときの状況やその際の事後の措置などの点でも不自然と思われる点が少なくないから、たやすくこれを信用することができない(特に証人渡辺政夫は、当初の尋問であきの素行についてきかれたときは何ら久保とあきとのことに触れないでおきながら、その後の被告の求めによる継続尋問においては、あきと久保との情交の事実について貞夫の証言と符合する詳細な供述をしている)。更に、記録上、明らかなごとく、被告が本訴の提起後相当の期間を経過してから始めて久保とあきとのことを持出し、その立証を試みていることは、清十郎とあきの問題の場合と同様、甚だおかしな態度というベきであつて、この点をも思い合わせると、久保とあきとの情交関係についても到底証明ありといゝ難く、そのほかにこの点を裏づけるに足りる証拠もない。なお、久保とあきとの関係についての中館鑑定の結果の採否については、次項において一括して述べる。

(三)  中館鑑定の結果について

被告援用の鑑定人中館久平の鑑定の結果によると、被告と原告との間ばかりでなく、久保正及び清十郎と原告との間にも父子関係の存在する可能性を否定できないという結論が出されている。これは一見、被告の不貞の抗弁を裏づける有力な資料のようにも見えるか、その鑑定理由の内容に立入つて検討すると必ずしもそうはいえない。即ちこの鑑定の結論は、原被告、久保正及びその近親者の血液型を検査した結果のみを根拠として出されたものであるが、鑑定理由中の記載からもうかゞわれるように、この鑑定は、結局、血液型検査によつては、清十郎及び久保と原告との間の父子関係を否定できるような血液型因子を発見できなかつたという、いわば消極的な判断しか示していないのであつて、しかも現在の法医学上かような血液型検査の結果によつて父子関係の存在を明確に否定できる確率は必ずしも高くなく、特に本件のようにかんじんのあきが死亡している場合には、この確率の度合は更に低められるものとされているのである。従つて結局中館鑑定は久保や清十郎が原告の父でないという決定的な反証は出なかつたという以上のことを示していないわけで、しかもこの両名以外のものを同じような検査に付しても、やはりそのような決定的な反証が出てこない蓋然性がかなりあるわけであるから、この中館鑑定だけから清十郎ないし久保と原告との父子関係を積極的に認めるわけにゆかないことは明らかである。もちろん他に有力な証拠があれば、それとこの鑑定の結果とを綜合してこの両名のいずれかと原告との父子関係を認め得る余地はあるわけであるが、本件では前記のように清十郎ないし久保とあきとの情交関係の存在について適確な証拠がなく被告の立証にいろいろ不自然な点があつて、到底そのような心証が得られないのであるから、結局この中館鑑定の存在にも拘らず、清十郎ないし久保と原告との間の父子関係の存在についてはその証明がないものというほかはない。

(四)  そのほか、おきが被告と同居していた頃のあきの素行についての証人渡辺政夫及び同久保正(第一回)の各供述はいずれも単なる噂の程度を出ないもので、十分な根拠を欠いている。あきは私生子を生んだわけであるから、当時きわめて素行の正しい女であつたとはいえないかも知れないが、そうかといつて、清十郎方に同居中、あきが著しく品行が悪かつたとか何人もの男と関係していたとか認めさせるような証拠もないのであるから、結局、被告のいわゆる不貞の抗弁を裏づけるに足りる証拠は存在せず、原被告間の父子関係の存在の認定を動かすに足りる証拠はないこととなる。

第五、古畑鑑定の信頼性と本件の綜合的判断

最後に残る問題として、右に説いたように、中館鑑定による血液型検査が清十郎や久保と原告との間の父子関係の存在についての十分な証拠となり得ないとすれば、同様に血液型検査の結果を重要な根拠とする前記古畑鑑定もまた、原被告間の父子関係の存在についてのきめ手にはなり得ないのではないかという疑問が生じよう。しかし古畑鑑定の内容を詳しく検討して見ると、原告及びその近親者ならびに被告の血液型について、中館鑑定が行なつた以外の血液型の検査をも含む八種類の血液型の検査(ただし、そのうち比較的信頼性が高いとされている三種の血液型による検査は、平館鑑定も行なつている)を行なつた結果、原被告間の父子関係の存在を否定するような因子が全く見出されないことを明らかにするとともに、原被告の耳垢型、指紋、掌紋、足紋の検査のほか顔貌の各部についての人類学的検査をも詳しく行なつた結果、原被告に共通な類似的特徴が数多く発見され、しかも一方、両者の間の父子関係の存在を疑わせるような著しい非類似性その他の徴候はすこしも発見されなかつたことをも綜合して、結局、原被告間の父子関係が存在するとの積極的な結論に達した経過が明らかであり、更にこれに加えて、さきに述べた第一の(二)ないし(四)のごとく原被告間の父子関係を裏づける事実ないし証拠が存在するのであるから、これら一切の資料を綜合すれば原被告間の父子関係を積極的に肯定して妨げないと考える。たしかに厳密な科学的見地からいえば古畑鑑定の行なつたいわゆる人類学的検査などの血液型検査以外の方法が現在の学問の水準では父子関係の存在を積極的に認定するための完全な資料を提供するものでないことは事実であるが、本件のように、多くの角度からの詳密な検査により、父及び子と主張されるものゝ間の全体としての類似性が相当強いことが明らかにされ、しかもその結果が血液型検査の結果や訴訟上たしかめられた証拠ないし事実とも符号するときにはこれを父子関係をうらずける有力な資料の一つとみなして差支えないのである。また、これを私生子認知制度の適正な運用という見地から考えても、実際問題として、もし本件の程度の証拠ないし資料がある場合でも、なおかつより完ぺきな立証を要求して認知の請求を拒むとするならば、およそきわめて明白かつ継続的な単一の情交関係が認められるような場合でもない限り、私生子認知の請求は恐らく殆んどの場合成立ち得ないことになり、却つて認知に関する法制度の目的にも沿わない結果を生じることとなるであろう。法は親子関係の確定についてその公益性を強調し、通常の訴訟の場合より厳格な証明度を要求するが、その反面、たとえば任意の認知の制度を認め、あるいは父子関係の証明の困難を理由に嫡出の推定のごとき制度をも設けているのであるから、接客、売春等を業とするものを母とするような場合は格別、本件のような事案の場合に、訴訟上の認知に限つて実際上不可能ともいうべき厳格な立証を要求することは妥当でないと考える。要は現在の科学の水準と訴訟手続の制約のもとで期待し得る限りで裁判所として満足できる程度の立証が果されれば足りるのである。かような見地から考えるとき、以上判示した一切の証拠ないし資料を綜合すれば、原告はあきが被告と情交した結果、懐妊して生んだ子であり、被告は原告の父であると認めることができる。

第六、結論

以上のとおりであるから、この原被告間の父子関係の存在を前提とする原告の認知請求は正当としてこれを認容し、訴訟費用の負担について民事訴訟法第八九条を適用して主文のとおり判決する。

(裁判官 田辺公二)

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